こんにちは。
11/12(火)〜25(月)
『女性にたいする暴力をなくす運動』週間が始まりました。
今日は、ある人のお話です。
今日参加していて、結びついたことがあって。
話してもいいですか?
誰かから「ごめん」と言われるのが
時に不快なのはなぜだろうって、ずっと思っていたのです。
昔、若かった頃に交際していた男性なんですけど。
その人は仕事がとても忙しく、
約束の当日に「ごめん、行けなくなった」と連絡が入ることがよくありました。
あまりにも重なるので、ある日、お客様の都合か何かでそうなるのかと聞いたら、
「いや。上から急に、帰ろうとすると仕事を振られる」と。
断れない空気なのだそうです。
最初は大変だなあとか、優しい人だなあとか思っていたのですが、
そのうち、彼には、相手に従ったり謝ったりすることで
済ます傾向があることがわかってきました。
温厚で人と争わないのはいいんですけど、
「え? なんでそこでごめんって言うの?!」ってことが頻繁でした。
私に対しても「ごめん」が続くので、ある日彼に、
謝らないで欲しい、
謝られても私が急な予定の変更に対応しなければならない負担や落胆の気持ちが減る訳ではないと言ったら、
「謝っているのに責められたら、
もう、どうしたらいいかわからない」と。
私も当時は、自分が何にモヤッとしているのかがわからず、
それ以上は言葉にできなくて、
彼とはそのまま疎遠になりました。
今日のWen-Doで、
相手に向かい合って声を発するっていうことをやっていたら、
あの時の彼のことを思い出しました。
理不尽なことを押し付けられても受け入れ、
私に「ごめん」で済ませていた彼は、
そんなつもりはなかったのだとしても、
私を、彼の上司に、一緒に従わせていたことになると思うのです。
そして彼の中では、上司>彼>私というヒエラルキーが
あったのだろうなとも思いました。
彼は、上司に従う時にもすみませんと言い、
私を従わせる時にもごめんと言っていました。
上司に「すみません。わかりました」と屈服しながらも、
私には「ごめん」と言うことで、彼は私を同じ構造の中に巻き込んでいたのだなと今はわかるし、
私はそこにモヤッとして、謝られることに不快感を感じたのだなと思います。
彼自身は、誰かに屈服させられても、
その矛先を他の誰かに向けて「ごめん」と従わせることで精神的な帳尻というか、
バランスを取っていたのかもしれません。
人のことばかり言ってしまいましたが、
ごめんなさいと言いながら、実は真の謝罪にはなっていなくて、
自分が被ったものと同じ構造を別の誰かに押し付けるだけになっているっていうことは、
私にも沢山あるだろうなと気づきました。
暴力の問題というのは、対個人で完結するものではなく、
巡り巡って…みたいなところも大きいと思うので、
人を暴力から守ることを考える際には、
自分が暴力的な構造を誰かに押し付ける当人になっていないか?と考えることも必要だなと感じました。