20年以上前。
私は、
自分が暴力を振るってしまうことをなんとかしないと!との気持ちから、
それに役立ちそうなことをあれこれと学んでいました。その中で出会ったひとつがWen-Doです。
特に、子育てに悩んでいました。当時は子どもが好きではありませんでした。
というか、大人に対しても、(たとえ相手がそうと気づかなくても)いじわるです。
モラハラ加害者の心理についての文章などを読むと、今でも「ああ、わかる〜」とか思っちゃう。
他人に対して否定ばかり。
世の中バカばっかりや!と思っていました。(←『バカって言う人がバカなんだよ』の典型
価値判断の中心軸が正誤(何が正しいか/何が間違いか)だったからだなと今なら思います。
世の中、何が正しくて何が間違っているかなんて、そう簡単にジャッジできないことばかりなのに。
でも若かった頃は、絶対的な正誤が社会の共通ごとであることで、
社会秩序が保たれると信じていました。
さらに、自分の知識や正誤の価値観が《社会や文化によって作られた、仮のモノでしかない》という自覚もなかった。
「私は正しい人間だから正しく考えることができる」くらいに思っていたし、
『悪い人は、正しく考えることができないからこそ悪いことをするのだから、
指導して、何が正しいかを思い知らせなきゃ!!』みたいな感じです。←友達になりたくない奴ですよね(笑)。
そんな人間が子育てをしていたので、ひどかったです…。
今思うと私の子どもは、不憫の最上級をいっていました。
こういう場所でふざけてはダメだと、わからせなければならない。
こういうところで泣いてはいけないと、わからせなければならない。
こんなことでダダをこねてわがままを言ってはダメだと、わからせなければならない。
食事はこぼさずに綺麗に、好き嫌いなく食べなければいけないと、わからせなければいけない。
お風呂ではふざけたり遊んだりせずにちゃんと身体を洗わないといけないと、わからせなければいけない。
夜は寝るものだとわからせなければいけない。
…延々と書くのもアレなのでこの辺りにするとして
24時間、毎日、万事がその調子。
乳幼児にそれが可能だと信じていた私の方こそ愚かやわ…。
当然、私の子育ては非常に難儀しました。
子育ては全く楽しくなく、子どもが可愛いと思えるはずもなく。
そして、
私は正しいと思いながらも、辛かった。
正しいことをしようとしているはずなのに、
怒鳴っている私はなんなんだ?
人に怒鳴るのは正しいことじゃないはず。
手をあげている私はなんなんだ?
手をあげるのは正しいことじゃないはず。
こんなひどい関わり方をしている私ってなんなんだ?
こんなの、正しい母親像ではないはず。
正しいことをしようとすればするほど、
私の行為は『悪いこと』だらけになる。
それがメチャメチャ、辛かったのでした。
ある日、子どもたちのお昼寝中に。
疲れて脱力しきった私の視界に、ふたりがスヤスヤ眠っている様子が目に入ってきました。
うちは双子なので、言い訳ですが、育児疲労も大きかった。
私は重めな喘息で、息も絶え絶えな中で育児をしていました。
二人が同時に眠ってくれるという出来事も、奇跡みたいな瞬間で、滅多になく、
そのために疲労感がドッと押し寄せてきて、
(のん気に寝てんじゃねーよ!)と、子どもへの怒りと暴力的な衝動がこみ上げてきました。
今ならやれる!と、私のイメージに浮かんだのは、
お腹をダンと思いっきり踏んだら内臓破裂で死ぬかな、とか。
アイロンを当てるなら心臓のあたりかな、とか。
そんなことしなくても鼻も口も覆えばいちころだな、とか。
やろうと思えばやれる。
そう気づいてしまうと、いてもたってもいられなくなって、
その衝動をどうしたらいいのだろうと、
スッと立ち上がったら、
今度はとたんに、
なんで私、今こんな風になってんだ?!。
子どもたちは眠っていて、『悪いこと』は何もしてないのに…。
って。
ショックでした。
それまで私は、子どもが悪いことをするから私が怒る羽目になり、
私が苦悩する羽目にもなり、
諸悪の根源は子どもや!!と思っていたけれど、
違う…、私がこうなのは、私の何かが変だから。
子どもは悪くないんだ。
もしかしたら、これまでも、誰も悪くなかったのかも、本当は。
涙が頬を伝わり、床についた手の甲に落ちました。
なんで?
私、怒ってたのに、
なんで泣いてんの。
その時に思いました。
一事が万事に怒る毎日はもうまっぴらだ。
理不尽に怒る自分は、もうやめたい。
私はただ、優しい気持ちでいたいだけ。
そこまではわかったものの、その先、何をどうしたらよいのかまではわからず、
私の何が変なのか、
どうしたらよいのかを学ぶために、
子どもに虐待する親たちのこと(つまり、自分のことです)、
そうした人たちへのサポート、ケアについて学びはじめ、
「気持ちをただただ聞いてもらうこと」の意味や価値を知り、
相談やカウンセリングに関心を持って、かじるようになりました。
世の中にはグループワークなるものがあること、
生きづらさとか親子関係とか、いろんなことについての講座があって、
学校での授業や講義以外にも、多様な学びがあるのだということも知りました。
そんなときに
「女性専用の暴力防止の、護身のプログラムっていうのがすごくいいらしいよ!」と。
私は被害者側というより加害者側だからな〜、別に私には不要かなーと思ったけど、
体験談を聞かせてくれたその人は言いました。
「自分に自信が持てて、すごく元気が出るって!」。
それなら…と興味が出て、情報収拾を心掛けるようになった後、
あるとき、「運命か!?」なくらいにWen-Doに参加せざるを得ない不思議な流れがやってきて、
参加するしかなくなりました。
圧倒的な説得力。
爽快感。
力強さ。
初回で魅了されました。
幼少期から喘息等で運動をしない私は、身体のことにはあまりにも無知だったことも大きな要因でした。
運動と言えば学校での体育=努力と根性=私にとって苦痛でしかないものだったので。
合気道や柔術的な「身体ってすごーい!」という面白さや
「身体を動かすって気持ちいい〜」という基本感覚自体が新鮮でしたし、
『あなたのアグレッシブさが、すごくいい!』と
私の暴力的な面を褒めてもらえたのが、目から鱗でした。
もしかしたら、男だったらまたちょっと違ったのかもしれないけれど、
女の私にはマイナス要素でしかなかった私の一面も含めて、
仲間が『そこがいいっ!』と、炸裂する瞬間の私を好きになってくれた。
そうか…。
私は、力の威力を確認したくて、認めてもらいたくてたまらなくて、
他者に対して暴力的・支配的になっていたけれども、
これは、人や私を守るために使える力なんだ。
だったら、平時に他人に見せつける必要なんて、ない。
そう思えて、生まれ変わったかのようにスッキリしました。
正確には、子どもへの暴力をある日突然辞められたのは、
Wen-Doとは全く無関係の別の出来事と気づきがあり、
Wen-Doに参加した時点では、子どもへの暴力的言動は止んでいたのだけれど、
Wen-Doは、私に、
私は、自分が思う以上になれる可能性を持った存在だ、と、
心の底から思わせてくれました。
私だけじゃない。
きっと、みんなが、そうなはず。
「今のままで十分幸せ」。
そう思って生きるのがダメだと思うわけではないけれど、
私はもっと、良くなれるんじゃないか。
私はもっと、何かができるんじゃないか。
私は、私のその可能性を、信じてもいいはずだ。
Wen-Doを通して、多くの女性がそう思えたらいいなと願っています。
そして、なんだかんだ言っても私もしょっちゅう凹んで、
そう思えなくなることが多々あるから、
Wen-Doと共に居続けることで、そう思い続けたいです。
「なぜ、Wen-Doをやろうと思ったんですか?」への答えになっているといいのですが(^-^)
もっと公式なプロフィールはWen-Do Japanのこのページにあります。
お前などダメだ、ダメだ、ダメだ! とする『抑圧』に気づかせてくれて、
それに対する私の真の声を取り戻させてくれたWen-Doを私が続けることで、
私をWen-Doへと押してくれた人々や力への感謝伝えられたら嬉しいし、
ひとりでも多くの女性が豊かな人生を生きられるようになったら嬉しいです。