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つれづれ

「おたがいさま」は互いを尊重するコミュニケーションと言える?

こんにちは。

今日は「心の傷と私らしさの学習会」の最終日でした♪
寒い中&決算や確定申告等でお忙しい時期にご参加いただいてありがとうございます。

今日は、境界意識と、それがコミュニケーションや『ふたりの関係』に
どう影響するのかを見てみるところからスタート。

暴力的な関係になる危険度の高いふたりの境界と、
危険度の低いふたりの境界を、図にしながら考えを整理していきます。

図にして整理したのちに、
危険度の低い間柄でのコミュニケーションの特徴と
危険度の高い間柄でのそれとを、対比しながらあげてみました。

例えば、

 《危険度の低い間柄》         《危険度の高い間柄》 
 ・互いを尊重する           ・相手を否定、侮辱、無視する
 ・力関係や権利の大きさに差がない   ・権利の大きさに差がある

というような感じで。


そのときにいただいたご質問が興味深かったので、
シェアと補足をこちらでさせていただきます(^^)/


いただいたご質問は

「『おたがいさま』は危険度が低いコミュニケーションだと言えるでしょうか?」 でした。


具体的にはどんなやりとりをイメージしてそのように尋ねてくださっているのかを
確認のためにお尋ねしたら、
質問をくださったかたは以下のようなニュアンスで教えてくださいました。
(*その方がそのときにおっしゃったことをそのまま明かすのは避けたいので、
  ニュアンスが変容しない範囲で、
  そのかたのご発言を書き換えています↓)


「どんなやりとり…そうですね…、困っているときはおたがいさま、って言いますよね。
 あと、
 例えば、困っていなくても…

 自分がひとりになりたいことがあるとしますよね。
 そういうときに、『ヒマなら買物に一緒に来てよ』と言ってくる人物がいるとして、
 その人に、
 『私も、あなたがひとりになりたいときにはそれを尊重するのだから、
  あなたも、私がひとりになりたいときは尊重してよ』
 と言って、相手に『おたがいさま』に気づいてもらう…というか。

 “あなたが大変なときには私は手伝う。
 私が大変なときにはあなたにも手伝って欲しい”とすることや、
 そのような他者との関わりかたは、
 危険度の低いコミュニケーションと言えるでしょうか」

こんなご質問ははじめてです。 
こんなことについて考えてみたのも人生初! 興味深い!

考えてみたのははじめてだったけれど、瞬時に私は、
《暴力的な関係になりにくく危険度の低いコミュニケーションとは言えない》と思ったので、

   そういう意味でしたら、
   むしろ、各自の境界を侵害しあうことにつながりかねない、
   どちらかというと危険度の高いやりとりかなという気がしますf^_^;
 
   本当にお互いの境界を意識して尊重するやりとりは、
   『私がこうするのだからあなたもこうして』という駆け引きとは無縁ですから。


とお返事しました。

ご質問をくださったかたは、ああ、そうか、なるほど、というようなご表情に見えたので、
現場では、とりあえずここまでにして次に進みました。


ただ、心の中では、他にも思っていたことが。
ご質問をくださったかたが「ああ、そうか」とおっしゃっていたので、
くどくなるし時間もかさむので結局言うのは省いたそれを、
こちらに書きとめておきたいと思います。


  *  *  *  *


私が、おたがいさまに危険度の高さを感じ、
そこに駆け引きという要素を見たのは、

「そっちが大変なときはこっちはちゃんと手助けしてるんだから、
 こっちが大変なときに、手助けしてくれてもいいだろう?!」

こうした発言は、
《人が大変な様子を目にしたら手助けをする“べき”》
《助けてもらったら恩返しをする“べき”》
という、その人自身の硬直ぎみな価値観を背景にしている可能性が高いし、

その個人的かつ柔軟性に欠ける価値観を、
おたがいさまだろう?!という、
“相手の罪悪感を刺激しやすい道徳観”の象徴みたいな言い回しを盾にして、
押し付けてきている(心を操作しようとしている)可能性も感じるので、

私にとっては、ものすごく気持ちが悪くて不快な物言いだなと思ったから。


その不快さ・気持ちの悪さに、
境界尊重の気持ち良さを見出すのは、私には無理だ…。


けれども、
『おたがいさまでしょ』が暴力や支配の隠れ蓑だと考えているわけではありません。
要は、この言葉の使いかた/使われかたに自覚的になることが重要なのではないかな。


  *  *  *

例えば、私が旅行のときに重いスーツケースを持って移動しようとして、
駅の階段でひーひー言いながら一段ずつ進んでいたときに。

「持ちましょうか(^^)」と手助けを申し出て、
スッとスーツケースを持って運んでくれる人が彗星のごとく現れた、とイメージします。


…できれば、男性がいいなあ〜(←どうでもいい)。


もし私が人の好意や援助を受けることに慣れていなかったら、
『あんな重いものを赤の他人に運ばせてしまった…』と
却って罪悪感を覚えたり、素直に喜べなかったり…ということになる可能性も、
なきにしもあらずです(←現実の図太い私にはあり得ないけど、一応書いてみた)。


そうした状況で、運んでくださったその人が私のその罪悪感の可能性にも配慮をして、
「困ったときはおたがいさまですよ♪ お気をつけて」と言って立ち去って行ったら。


 +。:.゚(((*〃゚艸゚)).:。+゚!!(←なに想像してんだ


少なくとも、私は、ものすご〜く救われるだろうな。


そうした状況で使う『困ったときはおたがいさま』の発言ならば、
駆け引きとは無縁だなと思えます。


実際は、スーツケースを運んでくれたその人はただ私を助けてくれて、
私は一方的にお世話になった、ただそれだけの関係。(←なに、この残念な空気


引き換えにするものが何もないまま、
実際はただ助けてくれているのに、『おたがいさまですよ♪』と言う。
こういう文脈で、《相手のために》この言葉が使われるときにこそ、
この言葉や意味するところの真の価値が光るのだと思います。


「おたがいさま」。
それは
「私達は皆おたがいに、生かされているのですから、
 それでいいではありませんか(^-^)」ってことなんじゃないかな。


そう思えたときの『おたがいさま』や
そこで生じるコミュニケーションと関わりあいは、
暴力とは遠いところに位置するものになると思います(*^^*)


丸一日の学習会へのご参加、ありがとうございました。
そして、素敵な差し入れも♡ ありがとうございました。
お疲れさまでした(^^)/

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by selfdefence | 2014-02-19 22:07 | つれづれ

ふくだゆいです。自己表現や思考スキル、日本語の講師です。20年以上前のある日、声をあげたら、『蓋』が開いたんです。びっくりでした。蓋の存在にすら気づいていなかったので。以来、困ったときには探すようになりました。どんな声でどんな蓋を外したらいいのだろう?と。基本閉じていてひとりの時間が好きな私でも、声探しに助けが欲しくなることがあります。声探しの場を求める人と繋がれたら嬉しいです。


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