Wen-Doインストラクターの福多です。
9月24日は金沢市主催の傷つきからの回復ワーク「私らしさを取り戻す」の第8回でした。
テーマは「コミュニケーションの歪みに目を向ける」。
PA(ピーエー=パッシヴ・アグレッション)と呼ばれる、受動的攻撃。
PAとは。。。
忙しそうで大変そうな素振りをわざわざ見せる割には
(時には不機嫌な表情だったり、
「あ〜忙しい忙しい!」と聞こえよがしに言ったり、
「することがない人はいいねぇ」とか
「よくそんなにずっと、ダラダラ過ごすだけでいられるよね」などのセリフを伴います)、
手伝って?とは言わない。みたいな ^_^;
いますよね〜。自分自身に覚えがある人も多いのでは?(←お前だろ!)。
PA(受動的攻撃)とは、
・気持ちや考えを濁し、率直に表現しないのにもかかわらず、
・陰口やうわさ話を広げるなどの、証拠が残りにくい方法で相手を攻撃したり、孤立させたり
・相手との関係性では当たり前に期待されるのをわかっている言動を意図的に行わず、
それを期待する相手を責めたり、黙殺/無視しつづけたり
(例えばデートを望む恋人を『お前は暇人か』とあざけるとか。
・約束したことを忘れた時に
開き直って謝罪をしないとか、
・自分では試行錯誤も意思決定も行動も何もしないのに、
とにかく、
された方にはなんとも言えないじっとりした不快感が生じることが多く、
それすらも「あなたが勝手にそう受け取っているだけだ」と一蹴され、
お互いを理解しあおうという話し合いのテーブルに着くことすら出来ません。
日本語でPAにあたる言葉って何かないかなあ…。
嫌味とか?
でも、嫌味や意地悪も、何かちょっとズレる感じがする…。
っていうのは、
PAは必ずしも自覚しているとは限らない。
むしろ、PA的なやり方のほうが無難/常識的/マシだ、と思い込んでいたりして。
何と比較して無難/常識的/マシだと思っているのかというと、
* * * * *
子どもの頃から、
例えば、小学生の子どもが、宿題をしてご飯を食べて洗い物を手伝って…とやっているうちに、
「自分の都合で人を利用して、なんてわがままで狡猾な人なんだろう」など、
「相手の言うことをもしかしたらイヤミかな?と思っても、
自分が勝手にそう感じているだけなのではないかという気持ちも沸いてきちゃうので…」
とおっしゃるかたがいらっしゃいました。
ああ〜。
そうやって巧妙に罪悪感を植え付けられるんだよね…。
植え付けられた罪悪感なんかのために、そんなに葛藤して悩む必要などないのに…(>_<、)
かくして、私達はコミュニケーションを通して、
人に罪悪感を持たせることのできるやり方がある、ということも
もし、なかなか他者に対して率直な言動が出来ず、
周りの人もそれが出来ない・しない人ばかり…という環境下に居続けたら、
自分の弱さやずるさに思える部分も含めて、自分の本当の気持ちや思いとつながった上で、
罪悪感がわきかけたときに、
真の罪悪感とは(ここでは)、
自分が明らかに非がある言動を誰かにしてしまったと、自分が認識していて、
『あれは悪かったな』と何に非があったのかを具体的にふりかえることができるときの、
良心の呵責のこと。
相手が不満を感じていなくても、怒っていなくても、「全然気にしないで♪」と言ってくれるとわかっていても、
それに対し、植え付けられた罪悪感には、
『それって私がいけないの…?』…と、戸惑いが伴います。
反省すべき事柄が自分の中で明確になっていないのに、
相手が不満そうだから、怒っているみたいだから、
もちろん、自分の言動がきっかけで誰かが悲しんだり怒ったりする様子を目にしたら、
それについて胸が痛むのって、ある意味自然なことです。
罪悪感が相手の様子を目にしたことがきっかけで生じてきている…とわかったら、
相手の土俵にのらない方法を考えます。
* * * * *
私はWen-Doに出会い、
自分とつながり、自分を保つ術を持ち、自分を護れる人は、
他者の言動にそう簡単に操られず、傷つくこともないのだということも学びました。
そうやって、ひとつひとつ方法を習得しながら、
植え付けられた罪悪感や、『人を傷つけてはいけない』の思い込みから
自分をちょっとずつ開放中です。
まだ根強く残っている思い込みもあり、
受動的攻撃をしちゃうことも、されて傷ついちゃうこともあるのだけど、
写真は今日の学習会会場です。
いつもお花を活けてくださって、ありがとうございますm(__)m