つれづれ

ハンナ・アーレント

こんにちは。
女性のためのセルフディフェンスWen-Doの福多唯です。

昨日「ハンナ・アーレント」を観てきました♪

あらすじ(ストーリー)は、私にとっては、公式サイトや予告編に出ている通りでした。
ハンナが、彼女が真実だと感じたことを世の中に公表し、多大な非難を受ける。
友人ですらハンナから離れていく。
それでもハンナは彼女にとっての真実を貫くのを辞めない。
そんなお話でした。

私が映画を観賞して得た体験は、予告編に表れない《その先のストーリー(結末)》を知ることではなく、
ストーリーを語る具体的なエピソードのひとつひとつに表れる「『人間くささ』との触れ合い」です。
ハンナ・アーレントの映画の中には、
人というのはこういうものなのだな…と実感させられるエピソードがあふれていました。
初見でそう感じたのだから、2度・3度と見たら、どんなに発見があるだろう。
上映期間中にまた行きたいなあ…と感じています。


*以下、感想のつもりで書くものの、
 ストーリーやエピソードにめっちゃ触れています☆


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映画のオフィシャルサイトで見るとわかるように、
映画の終盤に、ハンナの8分間のスピーチがあります。
力強くて気高く、これを聞くために2度でも3度でも繰り返し見たくなる作品です。
けれど、物語はその感動で幕を閉じるようなハッピーエンドではありません。

ハンナのスピーチを聴いて、皆が心を打たれて、
「そうだ!そのとおりだ!」と目覚める…なんてことにはならない。

きれいごとを描いていないから魅力的な作品であるのと同時に、
「ああ、それでも、やっぱりこうなっちゃうんだ…。
 そうだよね…。そうだよな…」と私は感じ、
映画を見終わってから、
『だったら一体どんな方法があるんだろう…?』という薄雲が胸の中にかかったような心境になりました。

  *  *  *


《悪は思考不能状態からもたらされ、暴力は人を思考不能状態に陥らせる》

暴力の定義の仕方や「暴力とは?」を表現する言い回しは、
視点や切り口によって色々な形があり、
そのひとつに、『考える力を奪うもの』というものがあります。


暴力を振るわれる対象が、加害者に対して
「なぜ?」と問うことや
「それは嫌だ」と主張することや
「そうしなければならない理由を説明して」と求めることや
「それよりもこうするほうがいいと思う」と提案すること…など、主体性を発揮することを、
暴力を行使する側は暴力行為によって徹底封鎖しようとします。

人の、あらゆる行動や労働、その根源となる思考を『無意味なもの』にします。


裁判では、命令に忠実に従ったまでだ、と淡々と主張をするアイヒマンがそこにいました。
それは、組織や社会など、
個人から主体的に考える力や感じ取る力を徹底して奪いとり、
「心の揺れ」や「良心の呵責」などのヒューマンエラーを徹底排除することで
人が歯車として正確に機能するように仕向けるシステムが存在していたということであり、
アイヒマンは個人を覆うそうした大きな屋根の下で
ある意味実直に、素朴に、悪意なく、ただ適応してそこで暮らしていたにすぎない…というのが、(ハンナの力を借りての)私なりの理解です。

そのようなアイヒマンに対して、
とにかく誰かを悪の発端として糾弾し、責任を取らせたいと思わずにいられない人たちも存在する。
だからこそ裁判が起こります。


その、責任を取らせたいと思わずにいられない人たちのアイヒマンへの訴えが妥当かどうかというと、
全く妥当ではない…という現実もハンナは目の当たりにしてしまいます。

それは皮肉にも、『暴力や悪に晒された人は、思考不能になるのだ』という
ハンナの考えを支えてしまうものでもあったのかも。

裁判を厳しい目で見つめるハンナに、私はとてもハラハラしました。


《悪が思考不能からもたらされるのだとしたら、
 悪の原因を突き止めようとする人の思考は健康に機能しているのだろうか》

責任を取らせたいと思わずにいられない人たちはかつて暴力を直接・間接に受けた人たちです。
その心の傷が大きくて生々しければ生々しいほど、
その件については『考える力』を奪われてしまい、人は論理的にはなれない…ということを
ハンナは体験していました。
被収容者の彼女が、『とっても奮闘したし、多くの仲間を励まし続けた。けれど心が折れた』と過去を語る場面がありました。

そのハンナが、裁判でアイヒマンを訴える人々を見つめます。
アイヒマンにその責を問うのは妥当とは言えないようなことを述べる人たちもまた、
「考える力」を奪われたのだ…ということを確かめていたのかな。


例えば、訴えのために法廷に立ちながら、
話しているうちにフラッシュバックのような症状に襲われて倒れてしまった人がいました。
裁判シーンには当時の、その実写が挿入され、それが現実に起きたことなのがわかります。

被暴力体験は症状を引き起こし、
その症状はその人が自分で考えて行動するための力も機会も奪うということ、
その人物は思考不能な状態にまさに陥っていた、ということが突きつけられたように感じました。

糾弾されたアイヒマンも思考不能だったけれど、
彼を糾弾した人々もまた思考不能だった。

暴力という悪が人の社会のシステムからもたらされるのだとしたら、
「悪の根源」として糾弾しうる人なんてどこにも存在しなくなります。


《傷ついて思考不能に陥っている人にどう向き合うか》

ハンナがそうしたことを考えながら裁判を見たのだろうなという
私の推測が当たっているとしたら、
ハンナが、アイヒマンの裁判を傍聴して彼女が得た彼女なりの真実を世間に公表したあと、
非難を受けたり、なじられたりしても、
ただひとこと静かに言うだけだった理由も、納得がいくなと思うのです。

ハンナはいつも
「やめて」あるいは、「その話は今日はやめましょう」と言うだけでした。
持論を展開したり、反論したりしようとはしません。

非難や批判の投書がくれば、返事を誠実に書こうとします。
反論のためにではなく、
「私の記事がこの人たちを傷つけたのなら返事は書かなければならないわ」と。

大学という教育機関=『人の思考の力を培うための場』がハンナを排斥しようとしたときと、
イスラエルから脅迫めいたことを言われたときだけは、
ハンナは徹底的に闘う姿勢を見せるのですが、
そうでないところでは、ハンナはどんなに一般の人々から糾弾されても、
相手と闘おうとするのではなく、
それまでと変わらない姿勢で人々と向かい合うべく自分を保とうと努力するのです。


《そもそもなぜナチスがこれほどまでに注目を集める?》

そしてこれも推測だけれど、ハンナは、アイヒマンやナチスが、悪の象徴として注目を集めること自体に対しても疑問を持ったのではないかなという気がします。

ナチスは悪名高く『させられてしまった』がゆえに、
世界中で、皆にとってわかりやすい『事例』にされてしまった面があるけれども、
似たようなことは、大昔から何度も繰り替えされ、他の国や集団によっても行われ、

そして今現在でも、誰かによって誰かに対して行なわれています。

例えば、生活保護を申請する人は、窓口でどんな扱いを受けている(という情報を私達は得ている)だろうか…と考えるだけでも、
アイヒマンが、特別に凶悪な人物だ、ということにはなりません。

わかりやすい(←理解しやすいという意味ではなく、「あああれね」と誰もが知っているという意味です)という意味でも糾弾するにも都合の良い何かや誰かを取り上げても、
その『わかりやすさ』や『糾弾しやすさ』に乗っかって『ワルモノ探し』をしようとしている時点で、
そうしようとしている人たちに、真の意味で、悪の根源など見出せるはずがありません。

『あいつが悪いことをした犯人だ。なぜなら××をするのは悪いことで、その悪いことをあいつはしたからだ。
 そしてあいつのような人間と自分は違う』とするのは
考えを述べているようでありながら論理的な部分は全くなく、
それの自覚なしにそれを平気で行うというのは思考停止状態に他ならない。

思考不能な状態こそが、悪の根源。ハンナが見つけたのはそれでした。

《反対意見を持つ人や既に怒りを持つ人に『冷静な説得』は有効か?》

出した記事の中で、ハンナはそうしたことも丁寧に語ったのではないかなという気がします。
(記事内容は映画ではさほど触れられないのでわかりませんが)
そう思ったのは、ハンナは何度も言うのを見たからです。
「最後まで読んでくれればわかるわ」と。

でも、『アイヒマンは思考不能な状態だった』というだけで
ハンナがアイヒマンを擁護していると大勢の人々が解釈し、反感を買ってしまいました。
ハンナに変わらぬ信頼や友情、愛情を寄せ続けてくれる人もちゃんといるのだけど、
その人たちは、ハンナが何を書こうとも、ハンナへの気持ちを変えることはないタイプの人々です。

反対意見を持つ人や既に怒りを持つ人に『冷静な説得』は有効なのか?
もし、Wen-Doの講座でそう聞かれたら私は、
「今のところはそのための有効な方法と私は出会っていないので、
 私だったら、それを試みようとはしません」と答えます。


“最後までしっかりと読んだ上でハンナを理解してくれる人”というのは
多くはないのだ…という現実が、映画の中では描かれていたように思ったし、
(私がそう見ただけかな?)
ああ、やっぱりそうなんだな…と感じました。


《信念と共にいることの孤独さ》

そしてハンナ・アーレントを見ながら私は
友人になれたかもしれない何人かの人たちとのことも思い出していました。

私にも、
「福多さんはなぜ、女性への暴力防止という活動をするの?
 男が悪いと言いたいだけなの?
 女や私はこんなに可哀想なのだ、と、
 被害者意識を盾にして何かをしたいだけではないの?」とか、

「女性への暴力防止を言うなら、もっと怒りの気持ちを本気で表現すべきだ。
 女に暴力を振るうのは男なのに、
 あなたはWen-Doをやりながら、男にすり寄っている。男に甘い」とか、

問いを投げかけてくれた人たちがいます。

そう言葉にする人は、そう言葉にする段階で、内心では相当私(のすること)に苛立っています。
何らかのうずきゆえにそれを問うてくれる人には、言葉は届かないことが多い。

だから、問うてくれた、ということにはものすごく応えたいのだけど、
私には、
『私という人間に好意や関心を持ってくれるなら、
 あなたと友人としての付き合いをこれからも続けられたら嬉しい。
 私という人間を、Wen-Doの福多というだけではなくて、
 多方面から知ってもらって真の友だとあなたが感じてくれる日が来て、
 そのときに同じ質問をしたい気持ちがあなたの中に続いていたら、
 私はそのときに、その話を、友人のあなたとゆっくりしたい』
ということを答えるしかありませんでした。


そんなあの人たち…のことを思い出しながら、ハンナ・アーレントを見ました。

自分の意志で考えることを辞めずに、信を貫くというのは、
なんて孤独で厳しい面を持つのだろう。


《私は『悪の凡庸さ』をどう扱うことが出来るのだろう》

そこで、私がハンナに共通点を見出せればまだ救われるのかもしれないけど、
とんでもない。
私なんてハンナの足下にも及ばない…と感じてしまう(←面倒くさいやつやなw)


女性が暴力に対して力を発揮できるようになるために…とWen-Doをしている私は、
果たして何者なんだろう。


『悪の凡庸さ』に作られた大きなシステムの内側で、
チョロチョロ動いているだけにすぎないんじゃないかな…と重い気持ちになりました。


なにしろ、映画はポジティブなメッセージやヒントは何も残してくれません(^^;
『自分で考え抜くことが人を強くする』と言っている映画(だと私は思った)なのだから、
ヒントなど何も残さなくて当然なんだけど、

じゃあ、一体、何からどうしたらいいんだろう〜〜(泣) な気持ちにはなるわけで。



私の、「福多唯」としてのスタートにはきっかけがありました。

私は自分で考えて自分で行動して生きている、と思い込んでいたのに、
実は全くそうではなかったんだ!!((((;゚Д゚))))))) とある日突然、気づいてしまった。
あの衝撃は忘れられません。


コントロールしていたつもりが、されていた。
自律していたつもりが、駒として動いていた。
操作していたつもりが、実は操られていただけだった。


人が所属する家族とか学校とか組織とか国家…などなど、
すべての社会システムに、
人を思考停止させるほうがシステムにとっては都合がよく、合理的に機能する…という側面があり、
私達はそこに適応せざるを得ない中で、そういう社会の中で生きているのだと。


そうしたアレコレに気づいたあの日は、それでも、実に清々しい気持ちだったのに、
似たようなことをテーマにしながら、ハンナ・アーレントを見た後の私の身体は
なぜこんなにも重いんだろう?


 *  *  *  *


《私にとって、『諦めずに考え抜く』とは》

そんな風に、出口はないのだけど、
考える、考える、考える…をぐちゃぐちゃと繰り返して、
昨夜はとりあえず寝るか、と、眠りにつきました。

そして今朝。
起きて、朝の空を見上げたら。空には雲がありました。


「曇り(の日)を無くすことなんて、私ひとりに出来るわけないよな」と
絶望的にではなく、当たり前の事実として、淡々とそう感じました。


デキルワケガナイ と言葉で書いてしまうと、
ネガティブな、諦めのニュアンスが伴ってしまうのかもしれないのだけれど、
感覚としてはそうではなくて、ただ、そういうことなんだよなと思った、に近い感じ。


空に生まれる雲も、それによる大雨や嵐も台風も、避けることは出来ない。
それでも、私達は自然災害から少しでも自分達や暮らしを護るために、
どうしたら少しでも安心して暮らせるのかを考え続けて、いろんな領域でいろんな人が頑張っている。

あがいているだけなのかもしれないけど、
それでも自然災害の被害を避けきることはできないのかもしれないけど、
だからといって、そんなこと辞めちゃえ、って話にはならない。

そういうことなのかな。

そういうことでいいのかも。


諦めずに考え抜く、っていうのは、
決死の覚悟や決意がいるような大げさなイメージのことではなくて、


『雨がふったら傘をさしたくなれる私と共にいる』
『寒い思いをしなくて済むように一枚多く羽織ろうとする私と共にいる』というようなことなのかもしれないな。


…と長々と書いていたらお腹が空いてきた(笑)。


何を食べたいかな。何を食べようかな。


そのように考える私と、今日も明日も、私は一緒に生きていきたい。
それを続けられるようにするために、
私に必要だと私が思うことと、私にはこれなら出来ると私が思うことを続けます。


    疲れたらとりあえず一晩寝る、って、やっぱすごいわ〜(笑)。



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Wen-Do Japanの公式サイト できたてホヤホヤです。
Wen-Doって?にお応えします。

「心の傷と私らしさ」の学習会@金沢市
・2014年1月末〜2月 連続でも興味のあるコマだけでも参加可
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by selfdefence | 2014-01-20 12:15 | つれづれ

Wen-Do Japanの福多唯です。今のあなたの「これさえ言えれば…」は何ですか。本当の声をあげたそのとき、世界は変わる。


by selfdefence