考えさせられる報道を目にしました。
強姦致傷の事件が裁判員制度での裁判にかけられ、
たまたまその事件で裁判員となった方々は全員女性で、
そして、執行猶予つきの判決を出した、というものです。
判決では、被害女性のケガが軽度であることや、被害女性が加害者(容疑者)の誘いに応じてカラオケの個室に入った経緯があることなどから、「(犯行は)悪質とは言えない」とされています。
裁判員の方々は、裁判のために多くの時間を割いて、真剣に討議して判決を出されたのだと思います。
裁判員の方々を批判したくてこのことをここに書くわけではないので、
ニュースソースの引用は意図的に控えました。
ただ、この判決を見たときに
被害女性のケガが軽度だ、とか、誘いに応じて個室に入った、とかが
『強姦』事件での考慮材料に入れられてしまうのだということをズシンと感じたし、
女性が裁判員であってもそのように考えるのだな…、というあたりに、
Wen-Doや暴力防止の活動に携わる私達が向き合う壁の高さを感じ、
ぎゃくに、やらねば!な気持ちにもなりました。
というようなことを某所でつぶやいたら、
ある方が「裁判員は加害者を理解しようとしたのかもしれないですね」というようなことを
おっしゃってくださって。
確かに。そうかもしれない。
「この男性には、さほどの悪気はなかったのだろう」
「状況からして、きっと女性がOKしていると思ってしまったのだろう」と、
加害者の心情を『理解』しようとしての判決だったのかもしれません。
犯罪や加害行為を行う人の心情の『理解』や援助的な関わりが大切だということについては
私も100%賛同していて、厳罰だけが全てではないと思っています。
けれども、例えば、「健常者-障害者」とか、「男性-女性」など、
無意識に定着してしまっている『偏り』が深く絡む問題については、
裁判に《市民感覚》を取り入れようとする前に、
その『偏り』の是正が必要、と思います。
ジェンダーがからむ事件については、やはりジェンダーの偏りに気づいていて
そこを是正しようという意識のある人複数で考える方式でないと、
全体の公平なバランスを鑑みての判決を出すのは現状ではかなり難しいのかもしれないな…と、
色々考えさせられました。
* * * * *
裁判での判決に限らず、この手の言い分は頻繁に耳にしますよね。
「ついてきたからOKだと思った」とか
「酒を奨めたら飲んだから…」とか
「さほど抵抗しなかったじゃん」とか。
《誘ったら気軽にカラオケに応じてきたから、OKなのかと思った》って、
「ねえ、今財布持ってる? ちょっと見せてくれない?」
と人に言って、相手が財布を渡してくれたら、
それはもう、そこからお金を抜いてもらっちゃってもOKってことでしょ♪
くらいかそれ以上の、解釈の飛躍があると私は思うけど、
性暴力に関しては、このおかしな飛躍がなぜか『理解』されちゃう傾向が根強い気がします。
っていうかさ!
別に性行為をことさら神聖なものとして見るわけではないけど、
性行為って、快楽と共にリスクも伴うので、
「気持ちでの合意」と「身体での合意」と「信頼関係」の上でこそ安心して楽しめることだと思うのですよ。
「合意」や「信頼関係」というものが(私にとっては)必要不可欠な行為を、
「状況」だけで短絡的かつ一方的に推察するっていうやり方が、
なんか単純に気持ち悪いし、変だと思うんだけどなー。
どうして「状況」だけで判断OKって思えちゃう人がいるんだろう…??
「合意」さえあればOKじゃん、大人同士なんだから、と考える人が、
「状況証拠」だけで一方的に推察してガンガン行こうとするのかな??
うーん、でもやっぱり、「信頼関係」にもこだわりたいよ。
だって、相手が、パートナーだとしても、
性行為で傷つくことって実際にあると思うもの。
『私をひとりの人間として大切に思っての扱いじゃないよな、今日のこれは…』
と直感しちゃうときの、
あの蔑まされた感とか、不快感とか、悲しさは、
私が感じるのも、(私のすることで)相手に感じさせちゃうのも、
両方とも、なるべく回避したい。
けどそれは起こりうる。双方の気分や体調やいろんな要因で。
だからいざというときに
「それはちょっと! やめて!!」って言える信頼関係は、
合意に劣らず大事な要素だと思うし、
そういう意味では、性行為って、誰とでも超お気軽に楽しめるもの、ではないんだけどな。
ここは個人的な価値観にすぎないとこになっちゃうのかしら。ううむ。
第三者からの暴力もあるけど、
女性への暴力は身近な人間関係の中で行われることが多くて、
私達が悩むのも、そこが一番多いので、
性暴力について考え始めると、このあたりがやっぱり特に気になります。