つれづれ

怒りという感情を表現できるようになるまで

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 H24年4月29日&30日
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こんにちは。Wen-Doインストラクターの福多唯です。


先日、私にとって貴重な気づきがありました。
「怒り」を表現できるようになるまでにどんなプロセスやステップがあるのか、についてのものです。



ある行き違いがあって、2週間ほど前に、私が家族に対して腹を立てました。
きっと相手にも考え方や言い分があってのことだったろうと思うのですが、
相手は「こう考えたからこうしたのだ」等をあまり言わないタイプです。
私が「どんな考えであなたがそうしたのかを聞きたい。聞かせて?」と言っても
私が少しでも怒りモードに入りかけていることを察知すると、話しません。


すると、ますます私の怒りは増幅します。
怒りが増幅するというより、相手からの物の見方や考えかたが提示してもらえないため、
ますます『私にはこうとしか思えないわ。それっておかしいでしょ?!』と
自分の物の見方/感じ方ワールドにズボズボと入っていってしまいがちになります。


なぜなら、「私が怒りを感じるのは正当なことだ」と、自分で自分を支えるには、
第三者に味方になってもらってそのように言ってもらうか、
さもなくば、自分の感じ方や捉え方の正当性を自分の中でよりしっかりと確立するしかないから。
そうしないと、『怒っている私が変なの?!』とぐらつきそうになるのですね。


で、まあ、そのときも、私はあまり自己主張してこない家族メンバーに対して、
私はこう思うよ、だからそれって不当だと思うし、あなたがそうしたことは間違っていたと思う、
という風に、
一方的に言う形になってしまっていたのでした。


相手に私の考えや思いが伝わったのかどうか感触もわからぬまま、
でも、私も、相手が黙っている以上、これ以上私ばかりが話をしても意味がないように思って、
その話はそこで一区切りに。


した、つもりだったのですが。
やはり、気持ち的に、スッキリしないわけです。
一応、言いたいことは相手に言ったはずなのに、やはり相手からの反応が芳しくないのでスッキリしない。
それに怒りの感情もおさまらずモヤモヤするのですね。


抱えていると不便なこの怒りの感情を、どう処理したら良いものかと考えて、
とりあえず、人様にあまり迷惑にならない形で出してみようと、
mixiの、自分の日記欄で、遠慮なく交流できる友人にだけ公開する形にして
どんなことがあったのかを書き留めました。


友人たちがいくつかコメントをくれました。
書いてみて、コメントをもらってみて、気づきました。

「なーんだ。結局私は相手に『あなたの言い分が正しいです』って言ってもらいたいだけじゃん」と。


ほんっとにヤだなあ、こういうの、とも思いました。
だって、相手から「あなたが正しいです」と言ってもらいたいだけだなんて、
そんな心根でのコミュニケーションはアサーティブでもなんでもないし、
承認欲求…と言えばマズローっぽくて聴こえがいいかもしれないけど、
子どもじゃないんだから。

家族が相手だとしても『私を認めて!』を要求できると期待する私が違うよな〜、みたいな。


「私の考えは正しい。相手の考えや言動は間違っている。
 そして相手はそのふたつを認めて、私に頭を下げるべきである。
 なぜなら私は相手のしたことで不快な気持ちにさせられたのだから」という、
私のこの、何年たっても根底に常にへばりつき続ける暴力性と支配欲。


ほんっとイヤやわ…。


イヤなんだけど、でもそこまで気づいた段階で、怒りの度合いがちょっと薄くなっていました。
完全に無くなるわけではないけれど、
『私がこうして怒っていることって、不当だし非生産的だよな』と思えるためか、
怒りがトーンダウンするのですね。



トーンダウンすると、自分でもちょっと怒りを扱いやすくなってきているので、
事の成り行きを傍観者として見ていた、別の家族メンバーBに聞いてみよう、という気持ちが
湧いてきました。


『あのとき、相手は私の発言をどのように受け止めたのだろうね?!』とリサーチする感じ。
このあたりも姑息と言えば姑息なのですが(^^;;


すると、家族メンバーBが言うに「ああ。あれね。けっこう反省してたよ」という返事なのです。



え? そうなの? それって相手が私の主張を認めてたってこと?!


ここでまた、怒りがさらに薄まります。
多少はあるのだけど、もうこだわるほどではなくなっているというか。


ここまで来ると、「ふーん。だったら、本人に訊いてみよう」と思えるようになりました。
相手に、改めて、
「先日のことだけどさ。
 私はあのとき一方的に言ってしまってたから、あなたも自分の考えを言いにくくなってたのかも
 しれないなーって反省してるんだけど、
 やっぱりこのままにしたくないし、あなたがどう考えてたのか聞きたいの。
 どう考えて、ああいうことをしたのかも知りたいし、
 あなたが私の意見を聞いて、どう感じていたのかも知りたいな。どう?」と尋ねてみました。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


相手の答えは
「悪かったと思った。言われてみて、自分の落ち度に気づくことができた。反省している」でした。


そのやりとりのあと、改めて、私が怒りという感情を抱きそれを表現できるようになるまでのプロレスを振り返り、明白になったことは。


ああ、私には、おそれがあったのだなあ、と。


そして、その恐れの内容?質?は、徐々に変化していたこともわかります。
ううむ、変化というか、
いくつもの恐れの扉があり、ひとつをあけて別の部屋に行って、
また次の扉を開いて別の部屋に行って、
ようやく最後の部屋(怒りを感じた出来事について、感情をほとんど交えずに落ち着いて話し合うテーブルの用意されている部屋)にたどり着いた、というほうがいいのかな。


初期のおそれは
「怒りの感情に任せて物を言ってしまうと、
 とんでもなく攻撃的な言い方・言葉・方法を使ったりしてしまうかもしれない。」というものです。

私はその出来事のときにとても怒っていて、自分でも怒りがかなり大きなことに気づいていました。
でも、諍いはイヤだと思ってもいたし、相手を暴力的に攻撃するのは本意ではなかった。
だから、今言ってしまうと攻撃になっちゃうかもしれないとの恐れがあり、
それを避けるために、一通り言ったら、もう言うのは辞めて、話をそこで区切りました。


それはそれで、あの段階に自分に出来ることとしてはベストだったなとは思います。
でも、それだけでは怒りはなくなりませんでした。

   →だからmixiの日記に書いてみるという行為を通して
    ちょっと自分の感情との間合いを取り、客観的に観察したり言語化してみたり。

    そこで、ちょっと怒りと距離が取れました。


次の段階でのおそれは、
ああ、やっぱり私って攻撃的だよな、
だって、相手にこういうことを期待してただけなんだもの、と
自分の欲求や悶々の底にあるものが見えてしまったときの、自分への嫌気に似た恐れ。

まあ、それはかれこれ40年以上のおつきあいなので、今さら打ちのめされることはなくなっていて、
とりあえず、「疲れると自分や他人を責めるなどロクなことにならない」と思って
一晩寝て解消しました。


3つめの段階でのおそれは、相手との関係性に対する恐れです。

相手は、ほとんど何も私に言わなかったけれど、
実は私に対してものすごく怒っているのではないか、
もしくは、私と共感できなくても相手は全く痛くも痒くもないのではないか、
という種類のおそれ。

もっと単純に言うと、
相手にとって私はさほど大事な人物ではないのではないか、というおそれ。


家族に対してそんな風に思うって変なのかもしれないけど、
でも、誰にでもあるよな、とも思っていて。
例えば子育て中に、
「こんな風に子どもに叱ってばかりじゃ、子どもはママなんて嫌いになるだろうな…」とため息をつくお母さんが決して少なくないように。


そんな恐れがあったら、相手と正面から向き合うなんてなかなかできないわけで。
だから私は、家族メンバーBにリサーチをかけたんだなぁ…と。


そして、家族メンバーBからの返答で、相手が反省していたらしい、との情報を得てはじめて、
私は相手に影響を及ぼすことが出来る程度には相手にとって大事な人間なのかも、と
前向きな力を発揮しやすくなったようです。
だからその次に、ようやく、最後の恐れの扉をあけて、
相手と向き合って座って語りあうテーブルが用意されている部屋に至ることが出来ました。


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怒りの感情は、自分にとって安全な相手(や対象)にこそ出せるものなのだということを、
私は、子どもを虐待してしまうお母さん支援の活動の中で学びました。
自分自身もそうだったから、それはすごくよくわかりました。

怒りの感情は、自分にとって安全な相手(や対象)にこそ出せる。
だから大人は子どもに怒りをまき散らし、
一部の夫は妻に怒りをまき散らし、
一部の上司や先輩は部下や後輩に怒りをまき散らす。


じゃあ、反対に、怒りをうまく出せないときに、そこには一体何があるのだろう? 
これまでは漠然と、「恐れがあると怒りは出せない(適切に表現できない)」と考えてきたのですが、
今回のことで、
そこには何重ものおそれのハードルが立っていることが見えて来ました。


ひとつじゃないんですよね。
こんなにあるんだよねぇ…。


つぶさに見て行けば、きっと、もっとあるよね。


まず最初の段階として、
『私が怒ることは正当なのだろうか?
 私の怒りには共感や賛同が得られるだろうか?』ってことへの
おそれがあるわけですし
(私の場合は、そこがぐらつくことはほとんどありませんが、
 でも、自分の怒りに正当性を感じたい!って感覚はありました)


相手が攻撃的な素質を持つ人の場合(口調が乱暴になるとか、目つきや態度が怖いとか、暴力をふるってくることがあるとか)なら、
『相手との関係性に対する恐れ』の前後に、
『相手の反応への恐れ』が入ってくるでしょう。


状況や内容によって、そして人によって、もっとあるのかもしれません。
何に対しておそれを抱くかは、人が何で傷つき体験を負ったかにも影響を受けるでしょうから。


ううむ。
こりゃあ、怒りは、感じることも表現することも、そりゃ一筋縄では行かないわけだよな…と思いました。
改めて、怒りって深いなあと思うし、
上手く掘り当てれば、金鉱みたいな、何か自分にとってとても大切なものが見えてくるような気もします。


この、沢山ある恐れの扉を、段階分けしたり表みたいに出来たらわかりやすいのだろうな。
でも、私ひとりの感覚や経験だけでは出来ませんね。
きっとある程度数を揃えての研究が必要なのでしょう。


もしかして既にそのあたりをクリアになさっている方がいらっしゃったら、
今頃『大発見!!』みたいに書いてるのってちょっと恥ずかしい気もしないでもないけど(苦笑)、
体験を通じての、実感を伴った気づきにこそ意味がある!(^-^)
Wen-Doを手がける者としても、そこは今後も大事にしようと思います。
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by selfdefence | 2012-04-02 14:36 | つれづれ

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